「わたしの中国、わたしのチベット―両者の板挟み、「売国奴」と呼 ばれ」
わたしは、イタリア語、フランス語、ドイツ語などの語学を勉強しています。今夏は、中国に帰省でき そうにもないので、アラビア語を学びます。目標は、30歳になるまでに中国語と英語以外に10カ国語をマ スターすることです。
言葉は、理解の橋渡しになると考えますので、語学を勉強しています。たとえば、中国とチベットです が、より多くの中国人がチベット語を学べば、そして、チベット人が中国についてもっと学べば、2つの 民族は、互いに理解を深め、現在の危機を平和的に乗り越えることができるはずです。一週間ほど前にデ ューク大学で起きた事件もあって、より一層強くそのことを感じています。
中国人とチベット支持の抗議者らの調停を図ろうとしたわたしは、板挟みの状態になり中国人から攻撃 を受けました。抗議活動が終わっても、脅迫はネット上で頻繁に見受けられました。さらに状況は悪化し 、中国にいる両親も脅され、身を隠さなければならなくなりました。わたしは、故国では歓迎されない人 間となったのです。
それは恐ろしい、不安な体験でした。しかし、たとえ脅迫や嫌がらせがあったとしても、わたしはこの 事件の経緯を発表する決意をしました。黙っていれば、いつの日か、他の誰かに同じことが起きるでしょ う。
昨年8月初めてデューク大学に来たころは、なじめませんでした。ノースカロライナ州ダーハムの小さ な町に来たのです。わたしは人口430万人の都市・青島の出身です。しかし、もちろん、慣れてきて、楽 しめるようになりました。世界中から来た多くの人々とともにさまざまな環境があるからです。クリスマ ス休暇中は、米人学生らはみな帰省しますが、中国から来た学生にはそのような経済的な余裕もありませ ん。その期間中は、寮や食堂も閉鎖されるので、わたしは、クラスメートのチベット人4人とキャンパス 外のところに住まいを借り、三週間以上も一緒に過ごしました。
わたしは、同じ国の同胞なのに、これまでチベット人と会ったことも話したこともありませんでした。 毎日、一緒に料理や食事をしたり、チェスやカードゲームをしたりしました。もちろん、中国の全く反対 側で育ったので、さまざまな体験について話し合いました。それはまさにわたしには目を見張るような驚 きの体験でした。
以前から、チベットには興味があり、雪の国としてロマンチックなイメージを持っていましたが、チベ ットに行ったことがありませんでした。チベット人は、違った世界観も持っていることを知りました。わ たしのクラスメートは、仏教徒で、信仰心もあつい人たちでした。そのことは、人生の意味について、わ たしの人生観を見直すよいきっかけとなりました。わたしは、中国本土の人々が教育されたように、唯物 論主義者でしたが、人生にはもっと重要な何か、精神的な側面もあるのだとわかったのです。
わたしたちは、その三週間たくさんのことを話しました。もちろん、中国語で話しました。チベット語 は、中国では、学校では教えていないため、消滅の危機にさらされています。チベット人が極端な資本主 義に走った中国の文化の中で成功するためには、北京語で教育を受けなければなりません。これを知って 、わたしは悲しくなりました。また、チベット人が中国語を学んだように、わたしもチベット語を学びた いと思いました。
この体験を思い出せたのは、4月9日夕方でした。わたしは、カフェテリアを出て、勉強しようと思い図 書館に向かいました。途中の中庭で、チベットの旗や中国の旗を手にして向かい合っている2つのグルー プを目にしました。何について抗議しているのか聞こえなかったので、好奇心からそばに行きました。両 グループの人たちをわたしは知っていましたので、彼らの間を行ったり来たりして、考えを聞きました。 ただ離れて立っているだけで、お互いに話し合うこともないのは、わたしにはとてもおかしく思えたので す。そこにいた中国人の多くは、理工系の学生で英語にはあまり自信がないので、言葉の壁があることもわかっていました。
両グループに一緒になって対話を始めさせ、より広い観点からみんなが考えることができるようにしよ うと思いました。それは、中国の老子や孫子、孔子の思想から学んだことでした。意見が合わなくても恐 れることはなにもないと、父から教わっていたのです。しかし、不幸なことに、現在の中国人の観念には 、批判的な考えや意見を異にすることは、問題であるとされますので、中国人はみな沈黙し、調和を保と うとします。
問題の発端は、抗議グループの知り合いの米国人協調者の背中に、わたしが「フリー・チベット(チベ ットを解放せよ)」と書いたことです。わたしは頼まれたからそうしたのであって、その協調者が中国人 グループと話し合いをすると約束した後のことです。中国人がこうした様子を見て、どのように思うかな どは考えてもいませんでした。両グループのリーダーはこの時点では対話しようとしましたが、うまくいきませんでした。
中国人の抗議者たちは、わたしは中国人なのだから、自分たちの見方になるべきであると考えていまし た。チベット支持グループの参加者たちはほとんどが米国人でしたので、わたしの複雑な立場を十分理解 できませんでした。実際のところ、両者とも全く心を閉ざしており、相手の立場を考慮することなどはし ませんでした。わたしは、ののしり合いではなく、意見交換できるようになんとかしようと思いました。 そこで、わたしは間に立って、両者に平和的に、互いを尊重するように促しました。わたしは、両者は共 通点も多く、差異よりは、類似点のほうがずっと多いと思うのです。
しかし、中国人抗議者たちは、参加者も100人以上とずっと多く、ますます感情的になり、声を荒らげ て、相手に話す余地を与えようとしませんでした。中国人抗議者たちは、十数人しかいないチベット支持 グループを圧倒し、デューク大学のチャペルの入口前まで追い込み、「うそをつくな!うそをつくな!う そをつくな!」と叫びました。これにはわたしも驚きました。とても攻撃的だったのです。中国人である なら、「君子動口、不動手(君子は手を動かさず口を動かす)=賢人は暴力に訴えない」を知っているはずなのです。
わたしは怖くなりましたが、お互いに理解しあえるようにしなければならないと思ったので、両者の間 を行き来しました。ほとんどは中国人に中国語で話しかけ、冷静になるように言い続けましたが、このこ とが彼らをさらに怒らせたようでした。中国人グループの若い男性たちが―中国語で「憤青(怒れる若者 )」と言いますが―わたしに向かって大声でののしり始めたのです。
中国人グループの中には、わたしを支持してくれ、「彼女に話をさせろ」と言ってくれる人もたくさん いましたが、そのことはあまり注目されませんでした。理性を失った少数の大声にかき消されてしまった のです。
中国人の中には、わたしが英語を話していることを批判する人もいて、中国語だけを話せと言ったので す。しかし、米国人学生は中国語がわかりません。中国人の中には、英語を話さないことが中国人として の誇りを表明することであるかのように思う人がいますが、わたしにはおかしいことに思えます。言語は 道具であり、思考や意思伝達の手段にしかすぎないのですから。
抗議の声が高まる中、中国人男性のグループがわたしを取り囲み、1989年天安門虐殺事件で、学生の民 主化運動を率いた女子学生リーダー・柴玲さんのことを取り上げ、わたしを指さしながら、「柴玲を知っ ているだろう。中国人はみな、あいつのことを火あぶりにしたいと思っているんだ。お前は柴玲のようだ 」と言いました。男性たちは、わたしは頭がおかしい、地獄に堕ちるなどと言いました。わたしの出身地 や出身学校などを聞いてきました。わたしは教えてあげました。隠すことなどなにもなかったからです。 しかし、その時、怒れる暴徒は今にもわたしを襲うのではないかと恐怖を感じました。結局、わたしは警 察の護衛でその場を後にしました。
学生寮の自室に戻り、デューク大学中国学生学者聯誼会(DCSSA)のウェブサイトや掲示板にログオンし 、中国人がどのように言っているのかを確認しました。DCSSAの役員であるQian Fanzhouは、「我々の立 場をはっきりさせる事ができた」と満足そうに書き込んでいました。
わたしはそれに返答し、わたしはチベット独立を支持していないが、そう非難されている。わたしはチ ベットの自由を支持するが、それは中国人の自由を支持するのと同じだであるとしました。すべての人は 自由であり、基本的な権利は保障されるべきです。中国の憲法にもそのように書かれています。このよう な書き込みで、実のある議論を期待していましたが、わたしはますます批判され、冷笑されるだけでした 。
翌朝、ネット上で嵐が吹き荒れました。わたしの額に「売国奴」といたずら書きされた写真がネットで 公開されたのです。さらに、驚くべきものを見ました。両親の市民ID番号が掲載されていたのです。わた しはショックを受けました。これらの情報は、中国警察でなければ得られないものだからです。
中国の実家の詳細な地図も掲載され、そこに行って、「恥知らずな犬」にしつけを教えに行こうという 呼びかけも書かれていました。このときになってはじめて、わたしは、事態の深刻さがわかりました。わ たしの命を狙うという脅迫電話がかかってきました。皮肉なことに、わたしが避けようと懸命になってい たことが、実際に起こっているのです。わたしは、攻撃の対象になったのです。
その翌朝、わたしは母と電話で話しました。両親も命を狙われているので、身を隠しているようでした 。母は、わたしに電話をするなと言いました。その時から、ショートメールだけがわたしたち家族の唯一 の通信手段となりました。先日、わたしは、わたしたちの実家のアパートの写真をネットで見ました。玄 関にふん尿がまかれていたのです。また、、わたしが住んでいる部屋の窓ガラスが割られ、ドアには嫌ら しいポスターが貼られていました。さらに、わかったことは、わたしが卒業した中国の高校で、わたしを 非難する集会が開かれ、わたしの卒業が撤回され、愛国教育が強化されたというのです。
中国人がなぜそのように感情的になり、怒るのかも理解しています。チベットで起きたことは、悲劇で す。しかし、わたしを迫害するのは認められません。中国人一人ひとりはこのことをわかっているはずで す。お互いをたきつけ、暴徒のようにふるまう時、事態は非常に危機的なものになるのです。
今、デューク大学はわたしに警察の護衛をつけていますが、中国語のネット上では、わたしへの攻撃は 続いています。しかし、わたしを誹謗中傷する人たちが目論んでいるように、わたしはひるんではいませ ん。それどころか、この恥ずべき事件を公にすることで、わたしの両親を守り、中国人の振るまいを反省 させようとしています。もう恐れてなどいません。わたしは言論の自由の権利を行使することに決めたの です。
言葉は理解の橋渡しなのですから。
grace.wang@duke.edu
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